音を楽しむ vol.2 学生編

最終更新: 5月13日

 少し話を戻して、大学に入る前の話から。僕の中では思い出深く、今の自分の糧になっているかもしれないエピソードを踏まえて。

 芸大入試には当たり前だが、音楽の勉強もしなければならない。楽典と呼ばれるものだ。ところが、尺八しか習った事のない僕にとって、これは相当、難関な作業だった。まず、高校2年生の時に初めて楽典の先生についたのだけれど、本当に相性が悪かった。こと、いじめに近いレッスンだった。ドレミファソラシドが、どうして変わるのかとか、短3和音とか、わからない事だらけ。質問をするとそんなものわからないのかと毎回、怒涛された。ピアノの音を聴いてもわからない。こんな事を書くとなんだけど、女性の生徒にはめちゃめちゃ優しかった。そこで堪忍袋の尾が切れた僕は、先生に向かって「お前に習わなくても、芸大くらい受かってやるよ!」と啖呵を切って、レッスン室を出て帰ってしまった。

 これには後々のエピソードが実はある。大学院を卒業して札幌に戻っていた時期がある。その時にとてもお世話になった箏の先生がいて、先生宅にお邪魔していた際、話の中で「私の親戚で楽典を教えている人がいて、昔、啖呵を切って出て行った生徒がいて、なんだあいつはと思ったらしい。あいつは今頃どうしているんだろうと言っていた事がる。そんな生徒もいるのねえ。」と話題になった。実は親戚である事は知っていたのだけれども、まさか話題に出るとは。「先生、実はその生徒は僕です。」と伝えた時、すごく驚いたのを時々思い出す。

 話を戻して。先生の所を飛び出し、数日間、考え込んでいた。どうしようというよりは、どうしたら楽典がわかるようになるのだろうと。そうだ、西洋の楽器を習えばいいんだ!それほど答えを出すのに時間がかからなかった。両親に無理を言って、ピアノを習い始める事にした。ピアノはアップライトでYAMAHAの中古品。でも、何台もある中から、全て音を聴いて決めた。今でもそのピアノは大切に扱っている。音楽の授業では習っていたけど、初めて音階というものを理解できたし、西洋楽器はすごいと思った。先生がよかったのか、とても楽しくて大学に入る前までピアノは続けた。

 一方、楽典はというと、母が新しい先生を探してくれた。正直、気が乗らなかったのだけど、仕方ない。しかし、その先生は本当に丁寧に楽典を教えてくれた。根気強く、わかりやすく。楽典は僕にとって数式のような感じで、得意ではないけども好きになった。

 少しずつ、尺八以外の曲に向き合い始めた時期だった。


 大学に入学し、僕は芸大の寮に入った。見た目、すごく汚くて、母が寮を訪れた時、泣いていた。本人といえばワクワクしていたのだけど。寮は1年生の頃はエアコンもない、風呂は共同で、それほど綺麗でない。水道から出る水は茶色いなど不便なところもあったが、何もりも沢山の分野外の友達ができた。今では、どうしているのかわからない人もいるけど、本当に楽しかった。結局、大学院までの6年間、この寮で過ごすことになる。

 東京に上京し、よく練習したし、もちろん遊んだし、演奏会も聴きに行った。邦楽だけでなく色々と。美術館にも足を運んだ。実は、札幌という場所は、それほどプロの演奏家が来ないので、演奏を聴くのに飢えていた。(恐らく、渡航費などの問題で割が合う演奏が少なかったのだと思う。)なので初めて琴古流の山口五郎先生の音色を聴いた時は鳥肌が立った。恥ずかしい話だけど、他の流派の音を僕は大学に入るまで聴いた事がなかった。

 その他にも、問題点がいくつか。坂本龍一さんに憧れて入学した僕は邦楽より違う事に興味があった。一緒に入った尺八の同級生も坂本さんが好きという事で意気投合して、邦楽以外の授業をとっていた。電子音楽学や音響学も面白かったし、なんと言ってもハマったのは民族音楽学だった。札幌にはアイヌ文化があるので入りやすかった事もあるのだけど、知らない楽器や、邦楽や西洋楽器にないエッセンス。すごく自由さを感じた。

 遊びとこうした分野外の事にハマり、実は2年生までは、尺八にあまり真剣でなかったように思う。(とはいえ、練習は毎日何時間もしていたけれども。)

 芸大に入学した際、周りの人があまりにも音楽や美術に真剣である事、そして大学1年の頃、大学院には今の師匠である藤原道山先生もいて、道山先生は当時からすごく上手で敵わない!と思って、父に芸大を辞めますと告げた事がある。怒られた事はあったが、あんなに父に激怒されたのは久しぶりだった。仕方なく、辞める事もできず模索の日々が続いた。


 当時の大学の先生は、山本邦山先生だった。僕が高校から習った北原先生の表現とはまた違う。琴古流もそうなのだけれど、同じ尺八でこんなに音色が違うものなのだと思った。大学一年の頃は、現代曲より古典が好きで、そればかり練習していた。先輩から古典じゃ食べていけないと言われても、僕は好きだったので古典を吹いていた。現代邦楽(作曲家が作った新しい曲)は聴いていたけれど、あまり現代曲(邦楽家が作った新しい曲)は馴染みがなくて、始め辛かったのかもしれない。北原先生の音色を守るか、山本先生の音色を追求するかでも、相当迷っていた。

 本格的に真剣に音楽と向き合ったのは3年生になってからだ。将来を考えなくてはならないし、尺八以外で食べて行く事が考えられなかった。なので、勉強という意味でも大学だけでは足らず、大学院を目指した。私の両親は音楽家になるのは否定的で、大学を卒業する時も、勝手に就職先を探してきたり、大学院が修了する時も札幌に帰ってきなさいの一点張りだった。なので、音楽の道づけを本当に一から自分で考えなくてはいけなかったので、本当に苦しかった。楽器を選ぶ事さえも。それでも大学院に入る際、門下生でもない僕を山本先生は桃華楽堂(宮中御前演奏)に推薦して下さった。(よく知らなくて、報告を受けた時は、へーーくらいにしか思っていなかったのだけど。僕はこういう事がよくある。)とても嬉しかった。恐ろしく緊張したのだけれど。

 上手く行きそうな気運の中、僕は大学院に入って2年になる時、バイク事故にあった。(大学時代、大型のバイクに乗っていた。)酔っ払いの車にぶつけられて、全身打撲、脾臓破裂。内臓機能停止状態になった。約1ヶ月寝たきり生活。絶食の日々だった。本当は2ヶ月入院と言われていたのだけど、無理に退院した。練習をしたかったから。頭も強く打ったせいで左耳に違和感があった。リズムがどうしても遅れるのと、聴こえない音があった。その回復には、相当時間がかかった。その分、必死に練習した。

 僕は大学院生活も含めて、とても有意義な大学生活を送れた。専門の世界に偏らない、多くの音楽や美術とも出会い、色々な人と出会えた事。ここでは書ききれない思いが山ほどある。大学生活で得たものを一言で言うと、「視野を広げて、好奇心を持つ」と言う事だったのではないだろうか。それでも、まだ邦楽以外は現代音楽、クラシックくらいしか聴いていなかったはず。そして、もっと広い世界が見たくて、その後、ロンドンでの生活を始める。「強く生きるvol.1」の最後の話に繋がる。



写真:クラブで友人とセッション


 ロンドンでは、クラブで演奏したりする事もあったし、音楽が好きな人が多かったので、様々な音楽分野に興味を持った。ジャズ、ロック、テクノ、ハウス、ジャンルがわからない音楽。もちろん、民族音楽。その影響からロンドンから帰国後、もっと生活に身近で格好がいい尺八の曲を作ろう。これが尺八だ!という音楽ではなく、本当に生活の中で流れていて嫌でない、耳にすんなり入ってくる。そうして、僕は色々な曲を作るようになった。


  • Facebookの - 灰色の円
  • Twitterの - 灰色の円
  • Instagramの - 灰色の円
  • YouTubeの - 灰色の円
  • SoundCloudが - グレーサークル